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Reply 自己レス 地震 復興 |
シャープの液晶テレビは 震災(阪神淡路) の復興と共に歩んだような先進技術&世界商品だった。
失われた20年といっても 気がついてみれば日本の技術が世界の隅々にまで行き渡っていた。
たぶん、この震災後にも復興と共に歩むような技術が現れる。 そしてその技術は磨かれ育てられ世界の隅々にまで行き渡る。
それは何なのか& どの企業なのかは まだちょっとわからない。
今一番 目の色が変わっているのは日本の技術者たち。 政治家や公務員では長い復興の道のりを力強く押し続けていく力に乏しい。(もちろん行政サービスの援助の力は大きい) やっぱり 技術と物作りに関わる人たちが復興のキーマン。
>> しかし、この苦しい20年間に大きな成果が獲得されたことを、見過ごすべきではない。 アメリカからの要求と円高に対応していく過程で、賃金だけでなく流通コストや公共料金などが大きく低下し、日本は世界一の高物価国から、世界有数の低コスト国に生まれ変わり、日本企業は著しくスリムになった。
また海外に生産をシフトしたことで、日本は輸出基地から世界経営の本社へと機能を変えており、いまや日本企業が海外で膨大な雇用を生む状況になった。加えて日本企業はハイテク素材や部品、装置などで技術優位を獲得した。
これらの、困難な時代の努力の成果は、2010年代、地政学環境が変化する中で顕在化してくるはずである。 <<
(『地政学が日本経済に味方、「失われた20年」がいよいよ終わる』 より - (これは地震前に書かれた文章) )
ひょっとしてソニー? ソニーの遺伝子が覚醒するかもしれない。 あるいはNEC、いや東芝、か 合弁のベンチャー。 それかまたまたシャープ。
こんなことを言うのは まだまだ早くて今は危機から脱出している最中であるけれども、エンジニア達の開発に取り組むモチベーションは以前とは全然違っている。 なんとかして復興の礎(いしずえ) となる技術& 産業を生み出そうとしている。
1995年 壁掛けテレビへの挑戦が具体的に始まった |
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地震 |
>> 液晶モニター市場が幕を開けた1998年,シャープ 社長(現・会長)の町田勝彦氏から衝撃的な発言が飛び出した。「2005年までに国内で販売するテレビをすべて液晶にする」と,町田氏は宣言したのである。当時液晶テレビはほとんど普及しておらず,社内からも「大丈夫か」と受け止められたほどだ。しかし,この発言が起爆剤となり,液晶テレビは町田氏の予想を超える勢いで普及していった。 <<
>> 壁掛けテレビへの挑戦が具体化し,TFT液晶パネルとPDPの開発競争が火ぶたを切ったのは,“町田発言”の3年前の1995年にさかのぼる。 <<
1995年といえば阪神淡路があった年。
価値観が激しく揺さぶられるような災害のあとには、ポッーンと何か新しい技術に賭ける動きが出てくる。
もともと企業の中にはインキュベート途中になっている有望技術がある。 平和なときはゆっくりゆっくり育てられていくのだけれど、こうゆうショックなことが起こるとなぜか急にそれに火がつく。
この先 どこか技術のある企業のトップが挑戦的なことを発表したなら注目すべきだろう。 それが次の世界商品になる はしりであるだろうから。
1995年から今日までの間に日本は世界のテレビを変えてしまった。 振り返れば、それは あっと言う間のことだった。
台湾地震チャリティー番組、4時間で寄付金21億円 |
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地震 |
4時間で21億、すごい。 今、台湾は中国への投資がうまくいってて調子がいい。 花博なんかもやっている。
話は変わるけど、
スマトラ島沖地震(2004年)による津波では、死者22万人、行方不明者7万人だった。 このとき日本は510億円援助した。
台湾も以前 大地震(921大地震 1999年9月) があった。 そのときの死者は2,415人。
四川大地震では死者8万7476人。 日本政府からの援助は5億円。
どこの国もいろいろと災害がある。
‘もう一度冷静になれよ!’ (ラモス) |
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地震 |
言いたいことはよくわかる。 しかしながら みんながみんな世界相手にビジネスする大企業に勤めているわけじゃない。 そうゆう人はそのままがんばればいいけど、たとえば外食産業に関わる人なんてこの先どうなるかわからない。 停電もあって潰れるかどうかの瀬戸際。 不利な立場にいる人は我が身の保身に走るよ、そりゃ。
この地震で価値観まで激しく揺さぶられた。 多くの人が今持っている価値観はもう以前の価値観じゃない。 以前よりもっと根本的なものを軸にする優先順位がきびしくついた価値観に変わった。 こんなときにフィギアのコレクションやミニカーのコレクションに興味ありますか? (元々興味のない人多いけど) この強烈な体験で組み変わった価値観はこの先もずぅーとそのまま続く。
それゆえ この先出版業界も危ない。 外食産業(関東圏展開の) と出版業界(中小)、あと半年もつかどうか。 もたなかったら、バタバタバタバターと潰れていく。 この先どうなるかわからない。
http://x3ru9x.sa.yona.la/1192 |
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いやー thanks. 訂正しました。
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地震 |
神戸市役所で地震の体験ととその後の仕事をした人が仙台市役所に応援に行くのが一番役に立つ。
大阪府庁とて同じ、応援部隊を宮城県庁に派遣すればいい。 一度 修羅場を経験しているからメンタル的にも耐えていける。
向こうで精神的に頼れる存在にもなる。 志願者を募っても少ないときは 辞令発令やぁー。
・ ‘東日本大震災:大阪府堺市が被災者受け入れ 市営住宅で1年間’ -
いい動き。 でも少ない。
堺市は阪神淡路のときも家を失った人を多数受け入れた。 市自体も肝の冷えるような地震の揺れを体験している。
臨海部にはアマゾンの巨大倉庫とシャープの大液晶工場がある。 職もあるから被災者を受け入れられるのだろう。
あーそーだ。 他の都道府県にしても受け入れる住宅はあっても職がないから受け入れられない ってのがある。 この時期 大学新卒でも就職は難しい。 きびしいっすね。
地震(阪神淡路) のあと大阪市内と堺市の火葬場には神戸から犠牲者の遺体が次々と運びこまれ フル稼働で朝から晩まで犠牲者を火葬した。 そのことを大阪市内の人も堺市の人も知っている。 堺市だったら地震の体験にもそのあとの悲しみにもシンパシーがある。 東北の人にとっては見知らぬ街だけど 労(いた) わりあって暮らせると思う。
震災後、堺市にきてから職を得、そのまま堺市民になった神戸の人も多数いる。 家を失った宮城の人も堺にきたなら もうそのまま堺で暮らすことになる(たぶん)。 故郷のことを胸の奥に押し殺して見知らぬ街に来た人のことを思うと ほんと切なく悲しい。 って今は感傷にひたってる場合じゃないけどね。
いまごろ 東北の方では朝から晩まで遺体を火葬 いや土葬していることだろう。 黙祷。
追記 :
http://x3ru9x.sa.yona.la/1188 |
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Reply 地震 |
情報 thanks. うーん 難しい。 道路状況の把握と物流が今一番の優先課題。 いわゆるSIS(戦略的情報物流)。
無傷だった所から被災地行くにしても距離があるもんだからガソリンの量から考えた往復距離しか行けない。 また、自分の仕事もある中で援助しなくちゃいけないから そのへんも難しい。
この週末 炊き出しに行く人もたくさんいるだろうから 道路状況を報告するツイートも欲しい。